エルトゥールル号を知っていますか?
またまた、ことさまの【貼る・ノートⅡ】からの転載です。
日本には「情けは人の為ならず」という言葉がありますが、日本人の祖先の情けが現代に成っても生きている話です。日本は、ご先祖様の深い情けでトルコ人は今でも親日国家です。逆にトルコに恩返しが出来るように子々孫々まで伝えねばと思います。
トルコ大統領が串本に 「エ号救難のお礼を」

和歌山県串本町と友好関係にあるトルコ共和国のアブドゥッラー・ギュル大統領(57)が6月7日、同町を訪れ、トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難慰霊碑で追悼するとともに、町民らと交流を深める。23日に閣議決定され、外務省、串本町、トルコで同時発表された。町関係者らは、友好の一層の深まりを期待している。
トルコ共和国大統領の来日は初めて。来日は、トルコと日本の経済交流の発展と文化交流の振興とともに、トルコ軍艦遭難慰霊碑で追悼するのが目的。トルコの民間研究機関「トルコ海底考古学研究所」が今年から本格的に始めたエルトゥールル号の遺品発掘調査が、テレビや新聞報道によりトルコ国内で話題になったこともあり「ぜひ現地に行ってみたい。エルトゥールル号救難へのお礼をしたい」と串本への訪問を楽しみにしているという。
ギュル大統領は約240人の随行員とともに4日、東京に到着。5日、天皇陛下と会見し、6日に福田康夫首相と会談する。
7日、空路と陸路で串本に移動。午前中、樫野にあるトルコ軍艦遭難慰霊碑に到着し、追悼式で殉職将兵らの霊を慰める。松原繁樹串本町長、仁坂吉伸知事のほか、地元住民も参列する。
トルコ記念館や樫野埼灯台を視察し、町内のホテルで開かれる歓迎レセプションに出席。町や県関係者、地域住民らと交流を深める。
ギュル大統領は、首相や外相を経て、2007年8月に第11代大統領に就任した。
串本とトルコとの友好は、1890年にエルトゥールル号が樫野沖で遭難した際、地元住民が乗組員の救助に当たったことがきっかけ。事故後、樫野に遭難慰霊碑を建て、5年ごとに海軍総司令官も参列して追悼式を開催。駐日大使や武官が在日中に慰霊するのが慣例になっている。事故から120周年にあたる2010年には「トルコにおける日本年」としてトルコで交流事業が計画されている。
松原町長は「トルコ大統領の訪問は誠に光栄。串本の歴史に残る出来事となり、友好が一層、深まるのではないかと思う。これをきっかけに串本を全国や世界にアピールしたい」と話している。
画像【日本とトルコの友好のシンボルになっているトルコ軍艦遭難慰霊碑(和歌山県串本町樫野で)】 ('08/05/24)

午後九時ごろ、 どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(逓信技手)は、はっきっりとその爆発音を聞いた。
「何か大変なことが起こらなければいいが」灯台守は胸騒ぎがした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。このとき、台 風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長76メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波のカでどんどん近づ いてくる。
あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。ぐぅぐぅわーん、ばりぱり、ばりばりばり。船は真っ 二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員は海に放つ出され、波にさらわれた。またあ る者は自ら脱出した。
真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放つ出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。
「息子よ、起きなさい」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」
という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」
そう思うと、急にカが湧いてきた。四十メートルルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどつ着いたのだった。
灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。
「あなたのお国はどこですか」
「……」
言葉が通じなかった。それで「万国信号書」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。この当時、樫野には50軒ばかり の家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見 えた。目をそむけたくなる光景であった。
村の男たちは泣いた。遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張っ裂けそうになった。
「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツ マイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備 えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。
「もう食ぺさせてあげる物がない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら……」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取っ留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。
このエルトゥールル号遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を 尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せら れ、トルコの遭難者家族に届けられた。
次のような後日物語がある。 イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かっ た。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にい た日本人はパニック状態になっていた。
そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの1時間15分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のこ ろ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで 困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
文・のぶひろとしもり


by 珈琲好き
新年の御挨拶